嫌いにひそむ固定観念(Koara)
前回の記事では「相手を嫌うことと相手の存在を否定することは違うことである」ということについてお伝えしました。
それにつづけて今回は、「嫌い」という感情自体にひそむ固定観念について語りたいと思います。
人が誰かを嫌いになるときには、いろいろな理由が考えられます。
「性格が気に入らない」
「昔、いじわるをされたから嫌い」
「初めて会ったときから気に入らなかった」
などなどです。その中で私が問題ではないかと思っているのは、
「みんながそう言っているから」
「世間でそう思われているから」
というのを理由にするものです。
この場合、「嫌い」という判断を下しているのは自分ではありません。自分はただ周りの意見に流されているだけで、何らかの事実や信念にもとづいて嫌いだと決めているわけではないのです。ですので、嫌われている相手には反論や議論をする余地が残されていません。
なぜなら
「どうして私が嫌いなのですか?」
という問いに対して
「だってみんながそう言っているから」
とだけ答えられても、話し合いが進みません。
「昔、こういうことをされたから」
「あなたのこういう性格が気に入らない」
などと言ってもらえれば、改善したり、落ちどころを探したりできますが、
「自分にはわからないけど、みんながそう言っているから」
とだけ言われても、どうしていいのかわかりません。
なにより、相手を嫌う理由を他人のせいにするのは卑怯ではないでしょうか。相手に反論することを許さず、「嫌い」という感情だけをぶつけるのはあまりにも一方的です。仮に
「みんながそう言っているから」
というのを理由にしたいのだとすれば
「私はみんなの意見に従いたい。だからみんなが言っているほうにする」
と言ってもらえれば
「あなたはどうしてみんなの意見に従いたいのですか?」
と議論を進められます。
「みんなが言っていることだから正しい」
というのは固定観念にすぎません。みんなが言っているということを免罪符にするのは楽かもしれませんが、決して議論の発展にはつながらないのです。
次回は私が最近、見た映画からこの考えについて具体的に説明しようと思います。
Koara